Yo te amo

Te adoro


El Viaje

Centro America

2000年9月16日〜10月6日


ホンジュラスへ

Copan遺跡

中米と言えばマヤの遺跡が有名であるが、ホンジュラス首都のTegucigalpaへ向かう途中にCopanという有名な遺跡があるのでそこへ寄っていく事にした。前夜ファミリアにお別れをして早朝4時に手配していた車が迎えに来た。運転手がめちゃくちゃ飛ばして怖かった。途中道路が崖崩れで岩がごろごろしていたところを通り抜けたりしてスリル満点だった。

グアテマラの国境でなんとキューバでお世話になった日本の大学生のMitsuo君と会ってびっくりした。そういえば彼も一月中米を旅行すると行っていたがまさかこんなところで合うとはと思った。乗っていた車が違ったのでまたCopanで合いましょうとすぐに別れた。昼前にCopanに着き宿はタクシーの運転手の勧めるところに取ったが10ドルで綺麗な中庭があって部屋も綺麗でベッドが二つありおまけにCATVまで付いているという大当たりの部屋だった。Copanへ行く方には是非お勧めです。パルケセントラルの北の方に急坂を5分位歩いたところにあります。Hotel Calle Real-2 1/2 al norte del parque central tel 651-4230。

マヤの遺跡にはバスで一緒だったドイツ人の女性とガイドを付けて回ったが巨大で綺麗な遺跡だった。ここでは人間が生け贄にされたらしいがとても名誉な事だったので喜んで生け贄になったそうだ。

コパンではMitsuo君に出会えなかったが翌日Tegucigalpa行きのバスでまた会いコスタリカまで一緒に旅をした。ホンジュラスとニカラグアは少し不安だったので安心した。

生け贄心臓置き台

ホンジュラス国境で再会。Small World!


首都Tegucigalupa

ホンジュラス首都

巨大焼きそば-4人前位ある

TegucigalpaではHotel Bostonというガイドブックに載っているホテルに泊まった。20ドルでやや高めだったが部屋は綺麗で両替もいいレートでしてくれるし、ロビーのCATVが見れたり、コーヒーとクッキーがfreeだったりしてなかなか良かった。オーナーは英語を話すアメリカ人の様だった。

Tegucigalpaはここが首都?という位の単なる市場があるだけの町だったがストリートチルドレンが教会の広場におり僕らが屋台で何か食べていると食べ物をねだってくるのだった。お金じゃなくて食べ物をねだられたのこの旅行でも初めてだった。またマクドナルドなどでもガラス越しに食べ物を小さな子供がねだってくるので落ち着いて食べられない。また中米などでは銀行などの銃を持った警備員がいるがここではスーパーやマクドナルドなどでも銃を持った警備員がいてまた怖い顔をして銃を水平に構えているので怖かった。

ホンジュラスとニカラグアの国境でも旅行者が食べ残したものやコーラなどを子供がすかさず食べていた。子供たちは我々から食べ物を貰うと母親のところに戻り一緒に食べるのだった。

ホンジュラスとニカラグアは中米でも特に貧しい国で更に'98年の台風ミッチや頻発する地震などで経済はかなり打撃を受けているのだ。ただ貧しいと感じるのは薄汚れた町中だけで町を離れると子供が裸で歩いていても貧しいというよりはのどかという感じである。

こんなところでもATMがありお金は問題なく引き出せた。翌日Mitsuo君がキューバから預かっていた手紙を日本大使館へ届けたがその周辺は比較的町という感じだった。食事を中華料理屋でしたがメニューを見るととても高く7〜8ドルで焼きそばと春巻きだけにしたが、運ばれて来た焼きそばが4人前くらいあって食べきれなかった。他のテーブルでもみなチャーハンなどを食べていたがそれも4人前くらいあった。色々頼まなくて良かったが味は美味しかった。Mitsuo君はキューバの中華街の中華と比べて異常に美味しいとすごく喜んでいた。


ニカラグアへ

サンディニスタ革命広場

Tegucigalpaで2泊した後Nicalaguaの首都Managuaに付いた。朝出て夕方に着いたがTica Busのバス停には大量に宿の客引きがおり我々はガイドブックに載っていたホテルへ行くからと言うと案内してくれた。すぐ近くだった。目的のホテルは良かったがもっと安いところがあったのでそこに泊まった。

この辺りは多少危険な地域とガイドブックに書いてあったが夜10時くらいまでなら大丈夫と言われ近くの中華料理屋へ行った。台湾人がやっているとの事でオーナーが挨拶に来て、本格的な中華が食べれるのかなと思って、ここでも焼きそばを頼んだがなんとスパゲティーの麺に焼きそばの具が乗っているという代物で、子供時代のソフト麺を思いだしてしまった。

朝早くニカラグア人は歌を唱いながら外を歩いていてそれで目が覚めた。結構うまくてのんびりしていて平和でいい感じだった。

ManaguaはTegucigalpaと比べて遙かに町として立派だった。翌朝我々は革命広場(ニカラグアもSandinistaの共産主義革命があったのだ)を見てからカテドラルを見て近くの博物館を見学した。カテドラルは地震で破壊されており別の場所に斬新なメキシコ人設計のカテドラルがあるのでそれも見学した。確かに教会というよりは新興宗教の建物の様だった。中にはいると天井の多数のドームから差す光が印象的で美しかった。

新カテドラルの近くに日本のショッピングモールと同様の巨大ショッピングモールがあった。この旅行では一番綺麗で立派なものだった。しゃれたCafeでお茶を飲んだ。ここではキューバ系のAlbitaのCDがBGMでかかっていて、選曲もおしゃれだなと思った。Albitaをこんなところ聞くとは思わなかった。その後、映画を2本見た。エディーマーフィーのNatti Professor2とPerfect Stormだった。二つともなかなか面白かったが、冷房が異常に効いていてPerfect Stormの登場人物の気持ちになった。中米やキューバでもそうだったが冷房のあるところはどこも異常に効いていてとても寒い思いをする。コスタリカからパナマへ行くときもバスの中で、夜中凍死するんじゃないかと思うくらい寒かった。

新カテドラル


コスタリカへ

ニカラグア湖-中米では町を出るとずーとこんな風景です

Managua2泊の後コスタリカへ戻った。途中とても大きなニカラグア湖を左に見て景色を楽しみながら移動した。中米では少し町を離れるととてものどかな風景が広がっていて、馬が足代わりののんびりした生活を送っているようだった。ただこんなのんびりしたところでも都会の若者の麻薬問題があるらしくバスで移動中は何度か麻薬の検問があり荷物をチェックされた。

コスタリカには夕方についたが、他の国と比べるとかなり都会だなと認識を新たにした。僕はそのまま4時間後にはパナマへ出発する事になっていたのでMitsuo君と食事をしてからバーでビールを飲んで別れた。

久しぶりのコスタリカだったが僕も多少スペイン語が出来るようになっていたためかよりリラックスして眺めると印象が一寸違っていい感じだった。Mitsuo君も女の子が綺麗と言っていたが、確かに他の中米の国と比べると綺麗で色が白いと思った。


パナマへ

コスタリカには泊まらずそのままパナマへ一人でバスに乗って行ったが夜の10時にパナマを出て翌日の午後パナマへ着いた。とっても明るい活気のある町で気に入ったので日本へ帰る直前まで10日位滞在した。

町はキューバのような明るい雰囲気で黒人が多く人々もとてもフレンドリーで面白かった。

アンコンの丘

パナマ市街Calle Centoral

パナマ市街-よく見ると人が死んでます。嘘、寝てるだけ。何で歩道の真ん中で寝るのか。

最初はホテルに泊まったがホームステイできるところがあったので後はそこに滞在したが、休みの日にPanama Viejo やらCasco ViejoやらAnconやらと観光地を案内してくれた。

パナマはガイドブックによっては中米一物価が高いと書いてあったりするが今は物価はとても安い。食事も2~3ドルであるし自由貿易港があるせいか衣料品が異常に安く売っていた。ジーンズも500円とかTシャツ100円とかそんな感じだった。タクシーもたいてい1ドル程度ですぐつかまる。ディスコとか遊ぶ場所も沢山あって楽しむ場所には事欠かない町だと思った。治安は地区によっては危険らしいが普通の場所は問題ない様だった。

激走バス野郎

Anconの丘を案内してくれる警官

パナマで泊まっていた家のMamaは僕がこれまで会ったことの無いくらいとても優しい人で「いい人の心には神様がいる。」とか言っていた。

娘はとても面白い子(chistosa)でMamaが向こうを向いているといつもアッカンベーをしていた。彼女は子供の教育には厳しくいつも時間があるときは娘に勉強させていてノートなどに色を塗ってあげてたりした。でも娘はとってもやんちゃだったので、テスト用紙に学校の先生が「校庭で遊んでいてテストを受けませんでした。」とか書かれていた。僕がキューバのCDを聴かせると踊りまくっていた。またお別れの時「帰っちゃうの、エーン」と泣き真似をして笑わせた。

中米のバスはどこもペイントに特色があって面白いが中でもパナマのバスは面白かった。日本のトラック野郎みたいにバスにそれぞれ絵が描いてあって、女優や、サルサシンガーなどの絵が日本のトラック野郎の工藤静香の絵みたいに描いてあるのだ。中には女性のヌードの絵なども描いてあってみてて飽きない。また夜になると電飾をつけているトラックもあって綺麗だった。


Panama viejo y Casco viejo y Ancon

       

    


再びコスタリカへ

パナマを名残惜しく出たあとコスタリカに戻り2夜過ごした。Duliaの家へ挨拶に行きそこでU君と再会した。Allenはパソコンを買っていてインターネットも出来るからいうのでこのHPのアドレスを教えてそのうちスペイン語バージョンも作るからと言っておいた。

翌朝U君とRoseMaryの家に一緒に行きお別れをした。RoseMaryも綺麗な子だったが彼女のお母さんもとってもチャーミングな優しい人で楽しかった。さすがにお医者さんの家だけあって広くて綺麗な家だった。そういえばこのときホームステイに200ドルちょっとしか払ってないというとそれはコスタリカ人家庭からのLobo(強奪)に近いと冗談めかして言われた。普通は400ドルくらいで安くても300ドル程度だそうだ。

その後San Joseへ戻った後U君は空港へ向かい僕は町を散策してお土産などを物色した。夜Teatro Nationalでフラメンコがあったので見た。一番上の4階席でステージは見にくかったが天井などの内装が美しく楽しめた。


ダラス経由日本へ

USA上空

朝早く起きてバスで空港へ向かった。朝9時発の筈がエンジンの調子が悪いと言うことで一端乗ったのに降ろされ結局出発したのは6時間後の3時だった。今回のAmerican Airは行きも帰りもまともにスケジュール通り飛んだことがなくて飛行機の待ち時間だけで30時間は余分に待った計算になる。お陰でDallasには夜に着きなにも見れなかった。ホテルの予約をしてなかったので空港でしようと思っていたらもう受付の人がいなくて自分でホテルに電話しなければならなかった。空港内のヒルトン(だったか、とにかく高級ホテル)は一番安い部屋で150ドルもしたので他を探したが80ドルであったので少し高いと思ったがそこにした。

もう一人日本人の女性がホテルを探していたので彼女と一緒にシャトルバスでホテルまで行ったが、いきなり黒人の運転手がラップをがんがんかけていたのでアメリカだと思った。ホテルはとても新しくて綺麗で部屋もベッドもとても広くてお湯もドバドバ出てアメリカの豊かさを感じた。受付の男の子が感じが良くて夜食事代わりにスナックやジュースを買おうとするとホテル代に付けとくからと言っていたのに翌朝の請求には含まれてなくて「いいよ」とまけてくれた。

最後の日本行きの飛行機だけは時間通り飛び立って13時間後には日本に着いた。


旅を終えて

旅行中は色々と(安全やお金などに)気を使ったりと大変な面もあったが今帰ってきてみるといいことしか思い出さない。いやなことは特になかったし、スリなどに狙われたことも一度もなかった。以前スペインに行ったときは一日一回は狙われたけど。中南米は危険というイメージがあるが日本人観光客がそれほど行ってないこともあって特にターゲットにされてないせいかな。みんな優しかったし、町は活気があって日本と比べれば整備されていないけど楽しかった。また子供が多くてかわいくて印象に残った。向こうの人は子供が好きで子供がとても愛されていた。経済はかなり厳しいものがあるようだけど、皆あくせくせずに楽しく生活していてとてもいい感じだった。だから経済が良くならないのかもしれないけれど。

あくせくしないというところで彼らの気質を一言で表すとtranquiroという言葉になると思う。意味は穏やか、のんびりみたいな意味だと思うが彼らもこの言葉が好きでよく使う。家にいる方がtranquiroだからとか、何か問題があったときも心配するなtranquiroと言われたり、田舎はもっとtoranquiroだからいいよねとか。

中南米は遠いようで意外と簡単に行けます。U.S.から2~3時間ですから。物価も安いから長期滞在にはいいところです。是非一度訪れてみてください。僕もまた機会があれば今度は南米とドミニカにも行ってみたいです。

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